〜地球から脱出するまでの日々の記録〜

2014/01/27

ずっと自分を抑えてきた。動いたら世界が現れた。

hallo,world!!

 最近気になった考え方があった
入ってくる感動と出していく感動

インプットは映画を見たり本を読んだり音楽を聞いたり
アウトプットは書きものをしたり芝居をしたりダンスをしたり


映画を見たり本を読んだりしてわたしたちは感情が動いて涙を流す


アウトプットもそう
それ以上だったかもしれない


昨年福島で生まれたロメオパラディッソという舞台の旗揚げ公演に参加した
今までダンスを続けてきたが芝居は初めての挑戦だった


芝居では多くのことを学んだ
稽古中でのアドバイスでも
「今のは心が動いてないよね。心が動いて初めて身体が動く」
「この台詞を受けて心はどう感じている??」


心を動かせる
心を感じとる


面白いくらいに戸惑った
なぜかって



自分が今まで社会で生きてくる中での作業のまったく逆の作業の連続だったから



どんどん痩せていった





ときには体調を崩した





それでも芝居は自分にとって心のリハビリとなった
毎日のリハビリのかいあって心の小さな動きを感じるようになった




本番にいたっては不思議な体験だった


自分の周りの大勢の者が悶え苦しみながら
「助けてくれええええええええ!!!!」
叫びそしてのたうち回るシーン
周りのキャストも極限に役に入り込んでたこともあったのか


目の前のものが現実にしか思えなくなった


本当に友達が自分の目の前で死んでしまう
自分はそれをどうすることもできないただ見ているだけ
あのときは心がぐわあっと鷲掴みされて揺さぶられる思いをした
今までインプットの感動にはない体験だった


インプットは作品を外から見るのだとしたら
アウトプットは作品の中に入るような
そういう感覚だった


インプットとアウトプットどちらが良いという話ではなく


生まれながら表現者である私たちは
誰かの表現した心動かすものを好み
それを自分の中に取り込む
取り込んだものは出さなければならない
自分の中にいる表現者が表現をせずにいられなくなるから

刺激を受けた子供が
電車のおもちゃで遊ぶように
みんなの前でアイドルみたいに歌って踊るように


ただ年を重ねるにつれ人目を気にし始めた人から
このアウトプットの回数は減ってくる


そうすると自分のなかの表現者はへそを曲げ
自分の心に霧を発生させなにやら晴れわたらぬ気分へと導く
自分たちはこの気分の真意に気付かず
今度こそとインプットを繰り返す

「動きたい」と言っているところにまたご馳走がたんまりと
ついには「ご飯よ」と言っても顔すら出さなくなる




こうして自分が表現者であったことを忘れていく




最近映画を見ても本を読んでも音楽を聞いても
心が動かなくなったといった人は

自分の中の表現者が動きたいのかもしれない

ギターをひいてみたり
写真を撮ってみたり
日々の想いを書き留めてみたり
クーピーで絵を描いてみたり

今までやらなくなっていたものを
すこしずつ
結果はともかくその過程を楽しむとこから





動き出すといろんなものが動き出す






当時、旗揚げ公演に参加しようか悩んでいた
仕事で新しいプロジェクトが動き出していたから

仕事のリーダーにおそるおそる相談した

すると彼は


「ここは若者がチャレンジできる場所なのに
スタッフがチャレンジできないのはおかしいでしょ。
自分にはチャレンジを止める権利はない。

やるからにはトップ目指してがんばれ」




まさかの行ってこいだった
(トップとかそういうものはないんだけども)



自分を抑えつけてきた自分にとってそれは
チャレンジしてもいいよっていう心の安全基地
心のスイッチが入った瞬間だったことを覚えている



仕事が忙しいながらも応援してくれて
公演も福島まで見に来てくれた


心からの感謝でしかなかった



動いたほうがいいよとは声を高めて言う気はない


ただ

















動いたからこそ味わえるものは間違いなくある










映画「ピナ・バウシュ 夢の教室」
これを見ながら自分の気持ちを高めて稽古に臨んでいた

”たいせつなのは、自分を解き放つこと”


00:56〜に出てくるメッセージ
そしてその後に出てくる女の子に何度も心が騒いだ

自分も解放したい